仕事の射程について:映画「WOOD JOB!(ウッジョブ)〜神去なあなあ日常〜」

昭和44年(1969年)生まれの僕の世代は、高度経済成長からバブル景気を背景に幼少期から青年期を過ごしたことになる。

冷戦、オイルショック、UFO、オカルトブーム、ピンクレディー、スーパーカーブーム、インベーダーゲーム、深刻な環境問題、ルービックキューブ、角川映画、宇宙戦艦ヤマト、YMO、ガンダム、ロンとヤス、、、、陽気さと世紀末的不安が入り交じった緊張感のあるテンションにありながらも、生活環境は向上し、どんどん近代的に近づき、なんだか世の中全体が浮かれていた右肩上がりの「今日より明日はもっと良くなる」という地に足のついていない気分に包まれた時代のなかですくすくと成長してきた。

ただ、生まれ落ちた場所が山口県という地方であり、また、家が農家であったということもあり、同世代の東京生まれの人たちはもちろん、同じ学校のクラスメイトと比較しても、生活スタイルそのものに大きなズレがあった。

まず、家の玄関を出てからアスファルトで舗装された道路に出るまでしばらくは獣道を歩く。
だから、雨なんか降ると、靴は泥だらけになる。白いズックも茶色くなる。いつも水たまりで靴についた泥を洗いながら通学していた覚えがある。(高校を卒業するまでずっとそうだった)

我が家には上水道、下水道とも通っていない。
蛇口をひねると水は出るが、それは井戸から電気ポンプで汲みあげる方式によるものだ。

トイレももちろん水洗ではない。さらに業者がバキュームカーで訪れるのではなく、溜まった排泄物は自分たちの手によって裏の畑の肥料になる。
エコなエネルギー循環の自給自足だ。

そして、風呂は薪で焚いていた。
つまり、井戸の水を風呂にためて、その水を薪でくべる。これはとても手間がかかる。

同じ学校に通うクラスメイトたちの生活環境と比べ、生活様式はあきらかに前時代的だった。

それはとても面倒な生活だった。余計なことも考えなくてはならないし、ひと言で言うと不便だった。それにその不便さは友人たちと共有できない。その不便さをネタに自虐的な笑い話やおもしろエピソードを披露する余裕ができたのは、高校生になってからぐらいだ。(住所に「へき地」と僕の名前だけが書かれた年賀状が届いたこともある)

でも、いま、思い返せば、社会インフラに依存せず、自給自足的な生活は、それはすなわち、贅沢で豊かな生活だったとも思える。

・井戸からくみあげる水で、薪でわかした風呂に毎日入ることができる。
・断水や節水とは無縁。
・空気がうまい。なんせ山の中だから酸素がたくさん。
・山の中には遊ぶものがたくさん。
・野菜や米も食べ放題。ちょっと足らない食材は畑に言ってとってきたものが晩ご飯になる
・お菓子は買ってもらえなくても、いちごも作っていたから、いちご食べ放題。
・楽器の練習をしていても誰からも文句を言われない。家の庭でバンドの練習もしていた。

こんな贅沢な生活はない。

親父は薄給だったから、クラスメイトが普通に持っているものを買ってもらうことも少なかったが、食べ物には苦労しなかった。

贅沢とは、いかに資産があり収入があるか、が問題だけども、自然の恩恵というものは、都会に住んでいるとなかなかに得られることが難しい。

だけど、人間は自然の恩恵なしに生きていくことはできない。

矢口史靖監督の「WOOD JOB!(ウッジョブ)神去なあなあ日常」を観た。





この映画の大部分の映像は、深い山に囲まれた景色と、そこで生活を営む人々の風景だ。
もう、これだけで僕にとっては、十分だ。映画として相当すばらしい作品だと思える。

そして、本物の役者が、本物の木を切る、というシーンがとてもスペクタクル。

上にも触れたように、僕の親父と爺さんは、風呂を沸かすための薪のために、裏の山の木を切りにいく。普段はなよなよしてだらしなくて威厳のない父親がチェーンソーで大きな木を切り倒す姿は尊敬に値した。

僕も中学くらいになって、チェーンソーを使って実際に木を切り倒していた。
この映画を観て、そのときの爽快感というか、自分の手で一本の木を切り倒す快感を思い出した。
あれは、なんともいえない気分だ。
木は生きている。
その生きている木を切る感触は、同時に自分も自然の中で生かされているただの生物であるということを知らされるような気分になる。

その自然の恩恵を受け、木を切り倒す。こういう営みを続けて、人間は今日まで生きてきた。神聖な気持ちの中で、自然の秩序の中から恵を受ける。

映画の画面から、それが僕の身体に伝わってきた。

もう、このシーンのスペクタクルだけでも、素晴らしい映画だった。
だから、ラスト近くのクライマックスについてはあんな雑な感じでいいんです。
あれはあくまで通過儀礼だから、ああいう演出は全然問題ない。

この映画の「映画としてエクスタシーを感じる場面」は、俳優さんたちが、本物の木を切り倒す。本物の木の高いところにのぼって作業をする、という場面なんです。いわゆる抜きどころはそこです。



映画の構造としては、なよなよした若者が、実際の林業を体験していくうち成長していき、少しだけ大人になる物語の典型的なストーリー。そこも大変清々しくて元気をもらえます。

さらに作品中の、主人公の勤め先の社長役の光石研さんのセリフにはっとする。

「オレたちが切っている木は、何十年も前にオレたちの爺さんたちが植えた木であり、それは爺さんたちの仕事の評価だ。オレたちがいまやっている仕事は、何十年先、100年先くらいに、オレたちが死んだ後に評価される。これがオレたちの仕事だ」

といったような意味のセリフ。林業という長い年月をかける手間ひまのかかる仕事ならではといえるが、しかし、これは林業だけに限ったものではないと思っている。

僕らは、自分の仕事を評価されたいと考えがちだ。
とくに向上心のある人であればなおさらだ。

いまの世の中は、オレが、オレが、という気持ちであることを評価される。

たしかにそうかも知れない。
結果を出すことはプロセスを語るより大切だ、と思っているビジネスマンも多い。
もちろんそうだ。
短期的な結果を出すことは必要かも知れない。
で、そこで成功したとしても、失敗したとしても、それは単に「期間限定の案件の問題」であって、ビジネスの中においてはスポーツの試合の結果か、受験みたいなもんだ。

成功し続けることも難しいか、失敗し続けることも難しい。
また、成功は一瞬で通り過ぎるし、失敗は永遠には続かない。

つまり、スポットな案件について結果を出すことは、人間の評価につながらない。

でも、なんとなくだけど、そういう案件を出すこと、出さないことによって、それを人間の評価として査定しがちだし、僕らもされがちだ。

でも、ビジネスを20年以上もやっていると、
「いいときもあるし、悪いときもある。」という感覚については実体験としてわかってくる。

さらに、自分の人生を軸に考えるのではなく、100年、1000年単位くらいで、自然の気持ちになって人類というものを考えてみると、物事は違ったように見えるはずだ。

すなわち、1000年前と、現在の人間の生物学的な能力にたいした差はないはずだ。
その頃の文学を読んでみても、だいたい言っていることは同じようなもんでびっくりする。

鴨長明の「方丈記」は、インターネットで現代訳がたくさんあるが、
「最近の都会で住む連中は心がない」とか
「最近の若いもんは、、、」みたいなことが綴られているエッセイだ。

つまり、時代や文化が変わっても、あまり生物としての人間そのものには、過去も現在もたいした違いはないと思っている。

だから、僕らが考えることに人間を進化させるイノベーションはないと思っている。

過去の人たちが生み出したものを参考にいろいろなことをヒントを得て、さまざまな文脈と幸せな偶然によってイノベーションっぽいものが生まれる。

スティーブ・ジョブスがすごいことをやったからといって、それはこれまで全く人間がやったことのないことをやったわけではない。
コンピュータという新しい土俵に、カリオグラフィやウォークマンや電話の動作を組み込んだだけ、ともいえる。

ビートルズにしたって、彼らのオリジナリティや音楽的イノベーションは多く分析されるが、それはやはり、前人のミュージシャンたちの作品の素晴らしい部分を引用したり、応用したり、さらには反対のことをやってみたりして生まれたものだ。

そう、どんな仕事であれ、ITや、AI技術であれ、過去の人たちの仕事を未来の人たちに引き継ぐことをやっていると思っている。

ちょっと話を戻す。

そこに気がつくと、仕事で成功したこと、失敗したことなんて、とても小さなことだと思う。いま自分がやっていることの答えは、自分が死んだ後にわかるものだと思えば、

「オレってなんのために生きてるんだろう」

なんて考えることは必要なくなる。

この映画は、そういうことを教えてくれる。

大きな自然の前や、大きな宇宙の前では、僕らは小さな存在だ。
小さな存在だから、たいしたことはない。

だからといって、適当にしようというのではない。

過去の人たちの素晴らしい仕事に敬意を払い、その仕事を未来に引き継ぐ。
それを毎日繰り返しやっているうちに、だんだん「自分らしさ」に巡り会える。

だから、人間がやっているすべての仕事は、自分がいま得られる利益のことばかりを考えるのではなく、未来につなげていくことで成果が生まれるのではないだろうか。

そういう射程にこそ、質の高い仕事の成果が生まれていくと思う。

明治時代から昭和の戦後まで、多くの起業家たちは、未来の日本という国のために身を削って働いた。現在までも残る企業の創業者たちに共通するのが、そういった未来の我々のために何ができるかということを考えて、仕組みを作っていった。

どんな職種であれ、未来に引き継ぐ射程をもって臨む仕事は力強いと思う。
1年後に結果が出なくても、3年後や10年後には結果が出るかもしれない。
継続や引継こそが、最も力強いのは、そもそも仕事というのが、そういうものだからではなかろうか。

この映画はそういうことを教えてくれているような気がします。

また、クリエイティブな仕事というのは、自然のなかにたくさんのヒントがあると思っています。そういう意味でも大いなる恩恵を受けているのです。
そういう意味でも、この映画は、監督やスタッフ、俳優さんたちも、自然のなかで仕事をすることによって確実にパワーを受けているとも思えます。

とにかく、元気になれる映画でした。


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