「よお、相変わらずバカか?」という絶妙なコミュニケーション
車寅次郎は映画「男はつらいよ」の主人公である。
1969年から毎年お盆と正月という年2回のローテーション(初年度と2年目は年3回)で26年間、48作に渡り大ヒットとなった映画シリーズ「男はつらいよ」。
テキ屋家業の寅次郎は、風の向くまま気の向くまま、日本全国を渡り歩き、旅先でマドンナに恋をして、時々葛飾柴又に帰ってきて、おいちゃんおばちゃん、そして腹違いの妹さくら、さくらの亭主のヒロシたちに気を使わせたり、迷惑をかけたり、そして、マドンナにふられたり、自ら身を引いたりして失恋、旅に出るというワンパターンを繰り返す作品だ。
このワンパターンを踏襲した作品は48作も作り続けられていた。
寅次郎というのは、幼稚だし、粗雑だし、空気も読まない。自分の気分でものをいう。嫌なやつだ。
自分のことは棚に上げて、上から目線で人に説教をしたり、見栄っ張りだし、がさつだし、口は悪いのが車寅次郎。やんちゃな子どものようにかんしゃくを起こしたりする。
身内にこんな親戚がいたら厄介だ。
一緒にいるときはトラブルを抱え込むし、彼がいい気分のときもいつ何が起こるかわからない不安もある。案の定、笑顔の直後にかんしゃくを起こして大騒ぎしたり、なかなか夜も安心して眠れないだろう。
さくらの亭主、博に至っては「もう我慢ならない。今日こそ兄さんに言ってやる!」と息巻いたところで、寅次郎の前では蛇ににらまれたカエルのように無力だ。誰がどうみても博が正しい。間違いなく正しいのだが、だいたい寅次郎にやり返される。
ただ、彼が旅に出て、しばらくしたら
「寅さん、いまごろ何してるんだろうねえ」
という気分になってくるという不思議な存在だ。
さらに、この人は同時に初めて会った人たちを魅了し、たとえ、迷惑をかけた相手も、一瞬で舎弟のように慕われるという不思議な魅力を備えている。
警察に捕まったととらやに電話が入る。急いでさくらが駆けつけると、その警察署の警官たちがみな寅次郎にすっかり心酔しているというパターンもお約束だ。
とにかく、立場や社会的地位も関係なく、寅次郎は誰とでも仲良くなれる。
また、寅次郎を好きになる。好き勝手に生きている寅次郎をうらやましくすら思ってしまう。
しかし、いまの時代、彼のような生き方をするのは難しくなっていると思う。
コンプライアンスやガバナンスのなかでは、タコ社長がしばしばとらやを訪れてカップラーメンをすするという風景はありえないだろうし、「朝日印刷」も社員がカードをぶらさげてピっとかやらないと行けないだろうから、寅次郎が「労働者諸君!今日もお務めご苦労様!」などと声をかけることもできないだろう。
それだけではない。
寅次郎のような人間を許容する社会が形成されていないはずだ。(内田樹さんも辺境ラジオで語っていた)
内田さんによると寅次郎そのものではなく、寅次郎を受け入れる共同体が衰退しているというものだ。
「現代の日本社会ではああいう人が生きることを許されない。その人の生存を社会が許さない。
寅次郎がいてもよいという地域の共同体がなくなっている。おそらく、寅次郎のような面倒なやつを受け入れていくような共同体を作っていくということで、共同体全体がすごく分厚いものになっていき、みんながハッピーになれる社会になる。共同体そのものがそういうことを忘れてしまっている。」
「男はつらいよ」について、あの作品全体の人情でもうお腹いっぱいになっちゃう。
という意見を聞く。
たしかに、いまの社会は、その人情が命取りになることもあるし、おせっかいとなって新たなトラブルを巻き起こす可能性もあるだろう。
だったら、最初からプライバシーを確保して隣近所との付き合いを最小限にしていくほうが生存戦略として正しいのかもしれない。
駅の構内で、ベビーカーで階段をあがる女性に、よかれと思って手を差し出すと
まず、不審なまなざしをうけることがある。
コピー機に忘れられた書類を急いでエレベーターまで届けたら、「なんですか?」と迷惑そうな顔でにらまれることもあるだろう。
でも、いまやそういうふうに「余計な御世話」をして迷惑をかけるくらいなら、そのまま見てみぬふりをするのが賢明だ。そういう世の中だ。
だから、寅次郎はまず生きることはできない。
我慢して「協調性がなくて出来の悪いサラリーマン」と評される日常を粛々と送るしかない。
普段は役に立たないどころか、ちょっとはた迷惑で足手まといになるようなそういう男。
チームのルールや約束も果たせないような男。
そして「空気が読めない」と蔑視されているような男。
いわゆる「役に立たない」男とされているような男。
成果を出していないといわれ、会社に貢献できていないとされるような男。
でも、おそらく、大地震や天変地異、そこまでいかなくても会社の危機などが訪れたときに最も頼りになるのが、寅次郎のような男だと思う。
そういう意味でも、本当は、彼のような男を共同体が取り込むことで生まれるメリットは大きいし、そういう意味でなくとも、彼のような男が住みやすい共同体は、誰にとっても居心地のよい共同体になるはずだ。
さらに、寅次郎という男は、
1)どこでも誰でも仲良くなれる
2)何でも美味しく食べることができる
3)どこでも寝ることができる
という人間として素晴らしい稀有な能力を備えている。
つまり、彼のような男を排除してしまうような社会全体というのが現代社会の特徴であるとするならば、僕らは、この3つの能力を安く見積もりすぎているんじゃなかろうか。
さらにいうと、寅次郎はすぐに女性に夢中になる。
これほど幸せなことはない。
人からモテてしょうがないという人間は、その存在により人を魅了しているかも知れないが、恋愛というのは何もしなくても好かれるよりも、好きになるほうが楽しいし、幸せを感じるのだと思っている。
長らく「男はつらいよ」を見ることを避けていた僕は、おそらく、そういった寅次郎的なものを「ダサい」「かっこわるい」と排除していたのかもしれない。
でも、あらためて、毎週作品を鑑賞しているうちに、すっかり寅次郎に魅了されている。
また、彼のダメなところを自分のダメなところとして共感し、彼と同じようにマドンナに惚れ、彼と同じように落ち込んでいる。
鑑賞している僕の年齢も寅次郎に近くなった。
すでに僕は寅次郎と同じ気持ちですっかり感情移入している。
だが、彼と同じようにご近所に
「よお、相変わらずバカか?」
と声をかけれるほど、いまの世の中は寛容ではないことを知っていることで、彼にはなれないということを知っている。
とりあえず、あと20作品、毎週土曜日に鑑賞する楽しみがある。
そのうちにいろいろと考えてみたい。
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