「スネ夫」化するわたしたちの未来
スネ夫は、たぶん心の底ではジャイアンを小馬鹿にしながら、ジャイアンの武力を利用して自分の立ち位置を確立しています。
また、みずからの経済的優位における文化的享楽においても、ジャイアンに快く供出し、ジャイアンの機嫌を損ねることなく、自身の安全と平和を享受できます。
ジャイアンの威光があるからこそ、必要のない嫌がらせをのび太に対して行います。
必要のない嫌がらせとは、わざと楽しいことを見せつけえおきながら、のび太に対してはその体験をさせない、ということに象徴されます。
だって、圧倒的にのび太に対して、スネ夫は経済的にも文化的にもレベルの高い生活をしているのだから、金持ち喧嘩せずで良いはずです。なぜでしょうか。彼はなぜ、そのような振る舞いをするのでしょうか。
おそらく、我が国においてはスネ夫的な振る舞いが推奨されているのではないかと思います。
企業においてももちろんですし、政治、官僚においても、私たちは常にジャイアン的なものを欲しているし、ジャイアンの意向に沿うこと、ジャイアンに依存し続けることで、私たちは自身の平和を享受でき、優位的なポジションを獲得できているのではないでしょうか。
すなわち、係長は部長をジャイアンに見立て、部長は役員の意向を「ジャイアンの意向」として部下に指示をする。
そして、社長も総理大臣も仮想的にジャイアンを欲している。
しかし、当のジャイアンはそんなことはあまり考えていない。自覚がなく、まあ、もらうもんはもらっときますよ、という態度。
もしくはジャイアンなんていないのかも知れない。
つまり、スネ夫だけがジャイアンの空気を読んでいて、ジャイアンにとって快適な空間を提供することばかり考えている。
とはいえ、ジャイアンはジャイ子に対して攻撃されたときは、相手を徹底的につぶすが、スネ夫が攻撃されても、普通の友情以上のことはしない。(あるかも知れないが、印象が薄い)
こういうふうにスネ夫とジャイアンにたとえてニュースを見ると、誰がジャイアンで、誰がスネ夫かがわかるはずです。
そして、どんどん、我が国はスネ夫化していくのです。集団的自衛権、TPP、米軍海兵隊基地の辺野古移設、、これらもジャイアンからの独立を計るものではなく、ジャイアンに依存しつづけるおおいなる意思表明です。
そして、スネ夫はジャイアンに対しては媚び諂うくせに、のび太に対してはどんな些細なことがあってもそれを許すことがありません。
ジャイアンの武力的威光を借りていることで存在証明をしているスネ夫にとっては、ジャイアンこそ正義であり、ジャイアンの意向にそぐわない態度には徹底的に厳しくなります。
おそらく、戦時中に自分の意に沿わない人を「非国民!」となじる一般人、
中学生時代に子どもたちに向かって執拗な厳しさで恫喝したような教師、
こういった市井の人々はスネ夫化することで、自らの体制におけるポジションを確立したのだと思います。
「日本はもっと誇られるべきだ!自虐的な態度はあらためよう!」
という威勢のいい発言をしている人もスネ夫的であり、自らがジャイアンになろうとはしていないと思う。
ジャイアンは、自身の快感原則を求めている。
他人の評価はあまり気にしない。
ジャイアンは激高するが、ネチネチしていない。
ジャイアンは芸術と音楽を愛している。
対して、スネ夫は「誰かの評価を気にしている」行動をとる。
「誰かにうらやましがられること」だけにしか興味がない。
「誰かに提供されたものは、常に誰かにうらやましがられるために享受する」というものだ。
ということは、これ以上、書く必要はないと思うけども、
「じゃあ、お前はのび太のように生きろというのか?」
と言われるかも知れない。
それもいいと思う。
のび太のような生き方のほうがとても人間らしくて好きだ。
さらにいうと、「出木杉くんという生き方」もあると思っている。
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