ためらいのプレゼン術:プレゼンテーションには、流暢なトークが必要か?
プレゼンテーションというのは、自分の考えを流暢に述べながら聴衆を魅了させ、うならせる、といったようなことを目指すのが一般的だと思います。
おそらく、それは、素敵なムードと巧みな話術で女性を口説き、うっとりさせ、その気にさせることと似ているような気がします。
また、アスリートがこれまでのトレーニングと天賦の才能などによって、競争相手を圧倒させることにもたとえられるような気がしますし、ミュージシャンがステージの上でうっとりするような歌唱や演奏で聴衆の意識を支配するのにも似ているような気がします。
そもそも、僕は、僕のことを知っている方ならご存知のように、滑舌も悪いし、噛むし、決してトークも流暢とは言えませんし、論理的なボキャブラリーも持っていませんし、理路瀬然とした演説のようなアジテーションもできてないと思います。ましてやうっとりするような容貌も持ち合わせておりませんから、プレゼンテーターとしては上述のようにとても理想的なスタイルと言えるわけではないと思います。
でも、どうしてそういう自分がプレゼンや講座などで講演し、また実力以上の評価をいただいているのかについて、自分でも不思議でおりました。
それが、先日のプレゼンの場で、なんとなくわかったことがいくつかありました。
プレゼンしながらわかったこと。それは「アイデアを考えた自分」と「そのアイデアを紹介する自分」が別の人間でいるように振る舞っている、ということでした。
自分たちの考えたアイデアを聴衆のみなさんの前で披露しているときに、「おお、このアイデアやデザインってなかなか素敵で面白そうだよね〜、誰が考えたんだろう?」っていう不思議な気分が訪れたのです。
記憶がなくなったのではありませんが、画面に表示されるアイデアやデザインを「まるで初めて見る画面のように」非常に客観的に見つめていたのです。
おそらく想像するに、聴衆のみなさんと同じ気持ち、同じ呼吸にシンクロしたような気分になりまして、自分たちで考えたはずのアイデアについて紹介しながら、同時にその内容について批評している、ということに気づきました。
音楽に例えると、自分が作曲した曲なのに、プレイするときは、まるで他人の作った音楽を演奏しているような気分になって「ああ、いい曲だよね〜、誰が作ったの?」という感じで演奏している気分に似ているのでしょうか。
ですから、自分たちの考えたアイデアの素晴らしさだけでなく、そのアイデアのくだらなさなどもあわせて紹介することが出来たことで、少なくとも聴衆のみなさんと同じ目線でそのアイデアを感じることができ、その息づかいまでもが同調することで、その結果、彼らに企画意図がしっかりと伝わった、いや、我々が意図した以上に、その考えの裏側までもが伝わったのだと思います。(そういうコメントをいただきました)
これは、本当に素晴らしい瞬間でした。
もちろん、これまでもそういったことがあったのですが、それは単に僕のキャラクターかと思っていたのです。しかし、そうではなく、「アイデアをつくった自分」と「そのアイデアを披露する自分」が別の人間であるからだ、ということがわかったのです。
企画を紹介するときに、自信をもって流暢に語るのは苦手です。
オレってイケてるだろう?オレのアイデアって素晴らしいだろう?オレって物事をよく知ってるだろう?だから、みんなに教えてあげるよ、という態度は僕にはできません。
おそらく、それは僕自身が「物事はそこまで単純でないし、明確なものではない」というふうに考えているからだと思います。
おそらく、それは、素敵なムードと巧みな話術で女性を口説き、うっとりさせ、その気にさせることと似ているような気がします。
また、アスリートがこれまでのトレーニングと天賦の才能などによって、競争相手を圧倒させることにもたとえられるような気がしますし、ミュージシャンがステージの上でうっとりするような歌唱や演奏で聴衆の意識を支配するのにも似ているような気がします。
そもそも、僕は、僕のことを知っている方ならご存知のように、滑舌も悪いし、噛むし、決してトークも流暢とは言えませんし、論理的なボキャブラリーも持っていませんし、理路瀬然とした演説のようなアジテーションもできてないと思います。ましてやうっとりするような容貌も持ち合わせておりませんから、プレゼンテーターとしては上述のようにとても理想的なスタイルと言えるわけではないと思います。
でも、どうしてそういう自分がプレゼンや講座などで講演し、また実力以上の評価をいただいているのかについて、自分でも不思議でおりました。
それが、先日のプレゼンの場で、なんとなくわかったことがいくつかありました。
(写真は僕が司会のWEBマスターサミット)
プレゼンしながらわかったこと。それは「アイデアを考えた自分」と「そのアイデアを紹介する自分」が別の人間でいるように振る舞っている、ということでした。
自分たちの考えたアイデアを聴衆のみなさんの前で披露しているときに、「おお、このアイデアやデザインってなかなか素敵で面白そうだよね〜、誰が考えたんだろう?」っていう不思議な気分が訪れたのです。
記憶がなくなったのではありませんが、画面に表示されるアイデアやデザインを「まるで初めて見る画面のように」非常に客観的に見つめていたのです。
おそらく想像するに、聴衆のみなさんと同じ気持ち、同じ呼吸にシンクロしたような気分になりまして、自分たちで考えたはずのアイデアについて紹介しながら、同時にその内容について批評している、ということに気づきました。
音楽に例えると、自分が作曲した曲なのに、プレイするときは、まるで他人の作った音楽を演奏しているような気分になって「ああ、いい曲だよね〜、誰が作ったの?」という感じで演奏している気分に似ているのでしょうか。
ですから、自分たちの考えたアイデアの素晴らしさだけでなく、そのアイデアのくだらなさなどもあわせて紹介することが出来たことで、少なくとも聴衆のみなさんと同じ目線でそのアイデアを感じることができ、その息づかいまでもが同調することで、その結果、彼らに企画意図がしっかりと伝わった、いや、我々が意図した以上に、その考えの裏側までもが伝わったのだと思います。(そういうコメントをいただきました)
これは、本当に素晴らしい瞬間でした。
もちろん、これまでもそういったことがあったのですが、それは単に僕のキャラクターかと思っていたのです。しかし、そうではなく、「アイデアをつくった自分」と「そのアイデアを披露する自分」が別の人間であるからだ、ということがわかったのです。
企画を紹介するときに、自信をもって流暢に語るのは苦手です。
オレってイケてるだろう?オレのアイデアって素晴らしいだろう?オレって物事をよく知ってるだろう?だから、みんなに教えてあげるよ、という態度は僕にはできません。
おそらく、それは僕自身が「物事はそこまで単純でないし、明確なものではない」というふうに考えているからだと思います。
それに物事を知っていることが優位であるとも思えません。誰よりもオレが優れている、というアピールは、断定や決断を毅然とした態度で言い切る様はその場において有効であっても、私は何もわからないが、異論も反論も様々な可能性をみつけることができる、といった柔軟性に対して、たいへん打たれ弱いものだとも思っています。
イエスでもあり、ノーでもあります。正しいとも思えるし間違っているとも思えます。パスタもいいけどカレーもいいねえと思います。
それは、周囲の人たちにとって、優柔不断とか、いまいち自信がない、とか、決断力がない、というふうに捉えられているようなものです。でも仕方ないのです。脱原発も原発推進にもそれぞれに正しい論理がありますし、言い分があります。
さらにいえば、そもそも「自分らしく生きよう」とか「自分の考えを貫こう」なんてとてもできません。「ありのまま」なんてとてもできません。
ところが、企画書を作っている自分は割とドヤ顔です。どうだ、まいったか!すげえな、オレ。というくらいの気持ちで表現してますし理論武装しています。(たぶん、これを書いているときもそうですよ)
でも、それを語る僕は、その理論武装に対して、別人格が違う角度からネガティブに語っているのです。おそらくためらいながら語っているのでしょう。まさに、ためらいプレゼンです。
ですから、両方の自分がいます。いや、両方というかいろんな自分がいます。いや、もっといえば、自分なんてものはもともと存在しないものかも知れません。
アイデアは、神が与えてくれたものかも知れません。その神が与えてくれたアイデアを、神様にお供えする儀式がプレゼンだと考えてみましょう。
となると、クライアントや聴衆を神様として見立て、お客様は神様です、という気持ちで神様に献上する儀式だとたとえることができます。
三波春夫さんが言っていた「お客様は神様です」というのは、そもそもこういう意味です。
彼も「神様から与えてもらった才能を神様に捧げる」という意味で、お客様を神様にたとえて歌声を披露していた、といいます。だから、お客様は神様です、なのです。お店とかでクレームしている人が「お客様は神様だろ?」ということをいいますが、これは三波さんの言葉の意図を正確に理解されておりません。
念のためいっときますが、僕はだいたいの日本人と同じく、宗教については初詣や厄よけ程度に神社に行き、お葬式や法事くらいので程度にお寺に行く程度のコミットしかしない人間です。
ですが、この三波春夫さんの意図を知ったとき、仕事に対しての考え方もとても納得できたような気がしています。
とくにクリエイティブの仕事というのは、神様から与えてもらったアイデアが、自分の身体を通じて作品として作られたものだと思うのです。それを神に献上する儀式を「納品」として捉えてみれば、我々人間は巫女のようなものかも知れないと思います。
アイデアや作品は自分のものではなく、与えられたものであるし、それを献上する。その際にご褒美としてちょっぴりご利益をいただく、というのがクリエイティブなのかもしれないと思うし、それがいわゆる「仕事」なのかも知れないと。
さて、さて、さて、
ただし、問題は、プレゼンがいくら盛り上がったとしても、コンペですから、勝負に勝たないといけません。
人事は尽くしたので、あとは天命を待つのみです。
つまり、あとは「神頼み」ということですね。
イエスでもあり、ノーでもあります。正しいとも思えるし間違っているとも思えます。パスタもいいけどカレーもいいねえと思います。
それは、周囲の人たちにとって、優柔不断とか、いまいち自信がない、とか、決断力がない、というふうに捉えられているようなものです。でも仕方ないのです。脱原発も原発推進にもそれぞれに正しい論理がありますし、言い分があります。
さらにいえば、そもそも「自分らしく生きよう」とか「自分の考えを貫こう」なんてとてもできません。「ありのまま」なんてとてもできません。
ところが、企画書を作っている自分は割とドヤ顔です。どうだ、まいったか!すげえな、オレ。というくらいの気持ちで表現してますし理論武装しています。(たぶん、これを書いているときもそうですよ)
でも、それを語る僕は、その理論武装に対して、別人格が違う角度からネガティブに語っているのです。おそらくためらいながら語っているのでしょう。まさに、ためらいプレゼンです。
ですから、両方の自分がいます。いや、両方というかいろんな自分がいます。いや、もっといえば、自分なんてものはもともと存在しないものかも知れません。
アイデアは、神が与えてくれたものかも知れません。その神が与えてくれたアイデアを、神様にお供えする儀式がプレゼンだと考えてみましょう。
となると、クライアントや聴衆を神様として見立て、お客様は神様です、という気持ちで神様に献上する儀式だとたとえることができます。
三波春夫さんが言っていた「お客様は神様です」というのは、そもそもこういう意味です。
彼も「神様から与えてもらった才能を神様に捧げる」という意味で、お客様を神様にたとえて歌声を披露していた、といいます。だから、お客様は神様です、なのです。お店とかでクレームしている人が「お客様は神様だろ?」ということをいいますが、これは三波さんの言葉の意図を正確に理解されておりません。
念のためいっときますが、僕はだいたいの日本人と同じく、宗教については初詣や厄よけ程度に神社に行き、お葬式や法事くらいので程度にお寺に行く程度のコミットしかしない人間です。
ですが、この三波春夫さんの意図を知ったとき、仕事に対しての考え方もとても納得できたような気がしています。
とくにクリエイティブの仕事というのは、神様から与えてもらったアイデアが、自分の身体を通じて作品として作られたものだと思うのです。それを神に献上する儀式を「納品」として捉えてみれば、我々人間は巫女のようなものかも知れないと思います。
アイデアや作品は自分のものではなく、与えられたものであるし、それを献上する。その際にご褒美としてちょっぴりご利益をいただく、というのがクリエイティブなのかもしれないと思うし、それがいわゆる「仕事」なのかも知れないと。
さて、さて、さて、
ただし、問題は、プレゼンがいくら盛り上がったとしても、コンペですから、勝負に勝たないといけません。
人事は尽くしたので、あとは天命を待つのみです。
つまり、あとは「神頼み」ということですね。
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