すでにご覧になった方のための映画「セッション」と「バードマン」の感想
映画「セッション(Whiplash)」を鑑賞。
先日、ヤフーニュースでも報じられた「町山智浩さんと菊地成孔さんによるネット上での激論」を巻き起こしたことでも話題の「セッション」です。
この投稿はネタバレを含みますので、すでにご覧になった方か、観るつもりがない方がお読みいただければと思います。
僕はボサノバアーティストでもあり、ギターやピアノを弾きます。
なので、楽器を演奏することの難しさ、練習の厳しさというのはこの主人公ほどのレベルではないにしても身体で理解しているつもりです。
また、僕は高校時代に学生指揮者をやっていました。クラシックや吹奏楽曲、ジャズなども指揮していましたし、指導をしていました。
その頃は若気の至りもあり、非常に厳しい指揮者だったので、この映画のように、うまくいかない演奏に対して暴言を吐いたり、機嫌を損ねたり、何か物を投げたりしたようなこともありました。
なので、この映画の主人公と鬼教官の両方の心理的な状態を楽しめるのでは?と思い、わくわくしながら観に行きました。
結論からいうとこの映画は、誰が観てもわかりやすく、楽しめて、痛快で、サスペンスも、アクションもあるカタルシスがある映画です。
鬼教官の気持ちは理解できるし、厳しい教師による訓練のような練習は大げさではなく理解できます。ああいうパワハラ、モラハラなんて当然です。
僕は指揮をやっているとき、高校生ながら「ああ、僕がここに立っているこの瞬間には民主主義は存在しないんだな。これはいわゆる独裁政権が許される場なのだな」と自分の行為を眺めておりました。
そして、その非道ともいえる厳しい訓練は、その先にある「本番でいかに奇跡を起こすか」という行為によって報酬を得られるものだとも思います。
また、クリエイティブもクオリティを上げるために人知れず努力をしなくてはならないとも思っています。スティービー・ワンダーも1枚のアルバムを作るために何百曲も作曲し、そのなかから何十曲を実際にレコーディングし、さらにそのなかから我々が知っている名曲の数々が生まれていきます。
また、手塚治虫さんも10個のアイデアを考えて、その中の2、3個はなかなか素晴らしいアイデアで、さらに、その中のひとつが驚くべき素晴らしいアイデアだった、と言います。
ビートルズはハンブルグで1年間、毎晩酔っぱらいを相手に演奏をしていました。
誰も聴いてくれない自分たちの演奏でアメリカンポップスのカバーを毎晩やっていました。
つまり、我々凡人は、ひとつのアイデアを出すのもやっと、であるのに対し、人の何倍も努力をし続けることをしなければ、到底あのレベルまで到達することはできないと思います。
そこで、この映画も、一流の音楽大学の一流のバンドで正ドラマーとして認められ、よい演奏をすることが目的の主人公。
どんなトラブルにもめげず、ひたすらにその夢に向かってストイックに邁進します。
そして、最後に「本番でいかに奇跡を起こすか」というカタルシスに向かっていく、、、
ものだと思っていました。
しかし、そうではなかったように思えました。
ということで、その理由を考えてみたいと思います。
たとえば、コメディ映画であり、同じようにラストの演奏シーンがクライマックスとなる「スクール・オブ・ロック」や「スイング・ガールズ」にはそのカタルシスがありました。
それは、実際の子役や女優さんたちが、本当に演奏している緊張感がリアルに画面に溢れていたからのように思えます。
音楽におけるセッションは、お互いに仲良くするというだけでなく、喧嘩になりそうなほどの挑発や、あえて相手を騙すようなそういう即興演奏から、思いも依らないような素晴らしい音の瞬間が生まれることもありますし、それが、未知のハーモニーやリズムを生み出すこともあります。
僕自身も追い込まれた緊張感からトランス状態のような恍惚が生み出され、ステージの上のメンバーだけでなく、観客も巻き込んだ音の魔術が生まれたことは、少なからずあります。
その時の空気感、音楽こそ空気の振動によって生まれた芸術ですが、その空気の流れが、自分から発せされる瞬間というのは、あります。これはテクニックなしにはありえないですが、テクニックだけでも生み出せないマジックのように思えます。
これこそが、「奇跡が起こる瞬間」でしょう。
ですから、「スクール・オブ・ロック」や「スイング・ガールズ」は、映画の中でそれを描いていたように思えるのですが、残念ながら、この「セッション」は、「鬼教官」と「主人公」の間にだけ緊張感があり、この2人以外のバンドメンバーはまるでカラオケのように背景としてしか存在していないことが、その奇跡を描けなかった問題だったと考えられます。
将来に夢を見て、一流を目指す若者と、その前に立ちはだかる乗り越えなければならない大いなる障壁。キャリアパスを得るために文字通り血の滲むような努力をする。自分を追い込んでストイックに訓練する。その彼が戦うべき相手は鬼教官のみです。これが僕が感じた大いなる違和感です。
音楽をプレイすることにおいて「戦うべき相手」は観客です。
師匠や評論家やプロミュージシャンではなく、一般の(専門家ではない)お客様です。
三波春夫さんは「お客様は神様です」といいました。
その言葉は誤解されて広まっていますが、三波さんの本意は「自分の歌は、神に捧げるものだ。その神をお客様にたとえて、神の前で歌っている」というものです。
(いまでは、その言葉を間違って使い、店員や発注先にクレームをつける人が多いですがそれは間違いです。)
神への供物として、自分の歌を捧げる行為であり、その行為の繰り返しが音楽を高めていくものだ、と三波さんは言っているように思います。
さて、主人公は誰に対してドラムを叩いていたのでしょう?
そこには、観客の姿も、もちろん、神の姿もなかったと思います。
この監督は、この主人公と同じように、ドラマーを目指して、この主人公と同じような体験をした末にドラムを挫折したということです。
ですから、物語や設定、および主人公の描き方にかなりの真実味があるといえます。彼の体験がこの作品に色濃く反映されているし、そこにリアリティがあるのでしょう。
ですが、それは逆にいえば、この監督自身が、その挫折から何も見いだせていない、とも言えるのではないでしょうか。
監督自身も主人公自身も、音楽を聴くお客様のことなど頭にありません。
誰か将来の人生を認めてもらうために、ドラムを叩いている。
音楽とは、自分の実力を見せつける場という側面もありますが、そのためだけに苦しい練習を乗り越えていくものではないと思います。
神に捧げる、お客様に捧げるものが音楽です。ギフト(Gift:1. 贈与、贈り物 2. 才能)とは自分が得るものではなく、相手に与えるものです。
もっと深読みすれば、神から与えられたギフト(才能)を、神に返礼するギフト(贈り物)が、音楽である、というふうにも考えられます。
その点において、この映画は音楽を技術的な技としてのみ描いており、この監督は音楽そのものの持つパワーにあまり感心がない」と考えられるのです。
監督自身にとって、音楽や楽器演奏はこの程度のもの、というふうに感じられたことが残念な点です。
監督自身の音楽に対する想いは「神様であるお客様の不在」「バンドメンバーの不在」といったところにあるのではなかろうかと思いました。
だからといって、この映画がダメだということではありません。
ただ、この映画は音楽のパワーを感じるものではなく、音楽というツールを使ったサスペンス、心理的描写のおもしろさ、鬼教官の怒りっぷりが面白いのです。
クリエイティビティを生み出すために自分を追い込むとか、そういった思想にも一理あると思いますし、楽器はとにかく練習しなくてはうまくならない、ということもその通り、と思います。
誰がみても面白い映画だと思います。僕自身も面白い映画だと思いました。
ただ、音楽の扱いや、監督自身の音楽への態度に、音楽への愛がないと思ったのです。
「スクール・オブ・ロック」や「スイングガールズ」にあって、この映画にないもの。それが「音楽の持つパワーへのリスペクト」である、と思いました。
さて、「セッション」よりも、音楽的に感じた映画は「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」でした。
この映画は完全に音楽のようでした。ライブ演奏みたいにスリルを感じる映画と感じました。
キャスト、ストーリー、演出、カメラワーク、すべてが良かった。
イニャリトゥ監督の父と娘の関係を描く絶妙な空気感も、とても丁寧に見事に描いていたと思います。
そして、可笑しくも寂しげな、愉快な、どうしようもない登場人物たちのエゴと人生と同じくらいの存在感があるのが、BGMであるアントニオ・サンチェスのドラム。
ほぼ全編、この映画のBGMは、このアントニオ・サンチェスのソロドラムだけで奏でられています。
この「ドラムだけのBGM」というめずらしい手法が、不安定な要素として画面を支配していながら、とはいえ、ドラムのプレイ自体は極上の表情の豊かさで、登場人物たちの演技が進行しているところにメロディやハーモニーが生まれているような、そんなふうに映画全体が極上のバンドサウンドとして展開されていたように思えました。
ラストも元気を与えてくれました。
笑顔になれるような、そんな映画でした。
そこで「セッション」と比較してしまいますが、ドラムの音の表現そのものだけみても「バードマン」のほうが全然丁寧なのです。
スネアの音ひとつとっても、「セッション」で奏でられるスネアの音は、まあ、一般的に教科書のようなジャズのスネアですよね、という音。
クライマックスのドラムソロのプレイについても、僕は途中で退屈してしまいました。
ところが、「バードマン」におけるアントニオ・サンチェスのドラムのスネアの音は多彩な音で、さまざまな場面をさまざまなジャブで彩っていきます。もう、そこにやられます。最初のタイトルからして、タイポグラフィックなシンクロがたまんないです。
また、シンバルやハイハットの音についても、「バードマン」のそれは一音一音がめくるめく演奏で、他の楽器が必要ないと思えるほどのムードがありました。
そういう意味でも、「バードマン」は、「セッション」における鬼教官JKシモンズの「音楽で奇跡を起こす」ということを、作品として成功させている、という皮肉なことになってしまっています。
ですから、おそらく、音楽をプレイする人、さらにドラマーであれば、「セッション」より「バードマン」に夢中になってしまうと思われます。
音楽に対する愛があるか、ないか、という点においてだけですけどね。
ですから、映画としては「セッション」のほうがストレートに楽しめるし、こういう題材で、こういうテーマでストーリーを進行させ、最後まで観客を夢中にさせる、というこの監督の手腕は見事!面白く、満足もできる作品だと思います。
しかし、音楽への愛は、「バードマン」の足元にも及びません。
それは、つまり、「セッション」の監督自身が、不幸にも音楽の純粋な楽しさを味わえる環境で音楽ができなかったこと、そして、ミュージシャンという夢に挫折したということが作品に色濃く反映されているのだと思います。だから、この映画は間違っていない、と思います。
ですから、最初の話に戻りますが、僕は町山さんの主張も、菊地さんの主張もどちらにも共感できます。
僕にとっては、おふたりとも、僕の心のお師匠さんですから。
先日、ヤフーニュースでも報じられた「町山智浩さんと菊地成孔さんによるネット上での激論」を巻き起こしたことでも話題の「セッション」です。
この投稿はネタバレを含みますので、すでにご覧になった方か、観るつもりがない方がお読みいただければと思います。
僕はボサノバアーティストでもあり、ギターやピアノを弾きます。
なので、楽器を演奏することの難しさ、練習の厳しさというのはこの主人公ほどのレベルではないにしても身体で理解しているつもりです。
また、僕は高校時代に学生指揮者をやっていました。クラシックや吹奏楽曲、ジャズなども指揮していましたし、指導をしていました。
その頃は若気の至りもあり、非常に厳しい指揮者だったので、この映画のように、うまくいかない演奏に対して暴言を吐いたり、機嫌を損ねたり、何か物を投げたりしたようなこともありました。
なので、この映画の主人公と鬼教官の両方の心理的な状態を楽しめるのでは?と思い、わくわくしながら観に行きました。
結論からいうとこの映画は、誰が観てもわかりやすく、楽しめて、痛快で、サスペンスも、アクションもあるカタルシスがある映画です。
鬼教官の気持ちは理解できるし、厳しい教師による訓練のような練習は大げさではなく理解できます。ああいうパワハラ、モラハラなんて当然です。
僕は指揮をやっているとき、高校生ながら「ああ、僕がここに立っているこの瞬間には民主主義は存在しないんだな。これはいわゆる独裁政権が許される場なのだな」と自分の行為を眺めておりました。
そして、その非道ともいえる厳しい訓練は、その先にある「本番でいかに奇跡を起こすか」という行為によって報酬を得られるものだとも思います。
また、クリエイティブもクオリティを上げるために人知れず努力をしなくてはならないとも思っています。スティービー・ワンダーも1枚のアルバムを作るために何百曲も作曲し、そのなかから何十曲を実際にレコーディングし、さらにそのなかから我々が知っている名曲の数々が生まれていきます。
また、手塚治虫さんも10個のアイデアを考えて、その中の2、3個はなかなか素晴らしいアイデアで、さらに、その中のひとつが驚くべき素晴らしいアイデアだった、と言います。
ビートルズはハンブルグで1年間、毎晩酔っぱらいを相手に演奏をしていました。
誰も聴いてくれない自分たちの演奏でアメリカンポップスのカバーを毎晩やっていました。
つまり、我々凡人は、ひとつのアイデアを出すのもやっと、であるのに対し、人の何倍も努力をし続けることをしなければ、到底あのレベルまで到達することはできないと思います。
そこで、この映画も、一流の音楽大学の一流のバンドで正ドラマーとして認められ、よい演奏をすることが目的の主人公。
どんなトラブルにもめげず、ひたすらにその夢に向かってストイックに邁進します。
そして、最後に「本番でいかに奇跡を起こすか」というカタルシスに向かっていく、、、
ものだと思っていました。
しかし、そうではなかったように思えました。
ということで、その理由を考えてみたいと思います。
たとえば、コメディ映画であり、同じようにラストの演奏シーンがクライマックスとなる「スクール・オブ・ロック」や「スイング・ガールズ」にはそのカタルシスがありました。
それは、実際の子役や女優さんたちが、本当に演奏している緊張感がリアルに画面に溢れていたからのように思えます。
音楽におけるセッションは、お互いに仲良くするというだけでなく、喧嘩になりそうなほどの挑発や、あえて相手を騙すようなそういう即興演奏から、思いも依らないような素晴らしい音の瞬間が生まれることもありますし、それが、未知のハーモニーやリズムを生み出すこともあります。
僕自身も追い込まれた緊張感からトランス状態のような恍惚が生み出され、ステージの上のメンバーだけでなく、観客も巻き込んだ音の魔術が生まれたことは、少なからずあります。
その時の空気感、音楽こそ空気の振動によって生まれた芸術ですが、その空気の流れが、自分から発せされる瞬間というのは、あります。これはテクニックなしにはありえないですが、テクニックだけでも生み出せないマジックのように思えます。
これこそが、「奇跡が起こる瞬間」でしょう。
ですから、「スクール・オブ・ロック」や「スイング・ガールズ」は、映画の中でそれを描いていたように思えるのですが、残念ながら、この「セッション」は、「鬼教官」と「主人公」の間にだけ緊張感があり、この2人以外のバンドメンバーはまるでカラオケのように背景としてしか存在していないことが、その奇跡を描けなかった問題だったと考えられます。
将来に夢を見て、一流を目指す若者と、その前に立ちはだかる乗り越えなければならない大いなる障壁。キャリアパスを得るために文字通り血の滲むような努力をする。自分を追い込んでストイックに訓練する。その彼が戦うべき相手は鬼教官のみです。これが僕が感じた大いなる違和感です。
音楽をプレイすることにおいて「戦うべき相手」は観客です。
師匠や評論家やプロミュージシャンではなく、一般の(専門家ではない)お客様です。
三波春夫さんは「お客様は神様です」といいました。
その言葉は誤解されて広まっていますが、三波さんの本意は「自分の歌は、神に捧げるものだ。その神をお客様にたとえて、神の前で歌っている」というものです。
(いまでは、その言葉を間違って使い、店員や発注先にクレームをつける人が多いですがそれは間違いです。)
神への供物として、自分の歌を捧げる行為であり、その行為の繰り返しが音楽を高めていくものだ、と三波さんは言っているように思います。
さて、主人公は誰に対してドラムを叩いていたのでしょう?
そこには、観客の姿も、もちろん、神の姿もなかったと思います。
この監督は、この主人公と同じように、ドラマーを目指して、この主人公と同じような体験をした末にドラムを挫折したということです。
ですから、物語や設定、および主人公の描き方にかなりの真実味があるといえます。彼の体験がこの作品に色濃く反映されているし、そこにリアリティがあるのでしょう。
ですが、それは逆にいえば、この監督自身が、その挫折から何も見いだせていない、とも言えるのではないでしょうか。
監督自身も主人公自身も、音楽を聴くお客様のことなど頭にありません。
誰か将来の人生を認めてもらうために、ドラムを叩いている。
音楽とは、自分の実力を見せつける場という側面もありますが、そのためだけに苦しい練習を乗り越えていくものではないと思います。
神に捧げる、お客様に捧げるものが音楽です。ギフト(Gift:1. 贈与、贈り物 2. 才能)とは自分が得るものではなく、相手に与えるものです。
もっと深読みすれば、神から与えられたギフト(才能)を、神に返礼するギフト(贈り物)が、音楽である、というふうにも考えられます。
その点において、この映画は音楽を技術的な技としてのみ描いており、この監督は音楽そのものの持つパワーにあまり感心がない」と考えられるのです。
監督自身にとって、音楽や楽器演奏はこの程度のもの、というふうに感じられたことが残念な点です。
監督自身の音楽に対する想いは「神様であるお客様の不在」「バンドメンバーの不在」といったところにあるのではなかろうかと思いました。
だからといって、この映画がダメだということではありません。
ただ、この映画は音楽のパワーを感じるものではなく、音楽というツールを使ったサスペンス、心理的描写のおもしろさ、鬼教官の怒りっぷりが面白いのです。
クリエイティビティを生み出すために自分を追い込むとか、そういった思想にも一理あると思いますし、楽器はとにかく練習しなくてはうまくならない、ということもその通り、と思います。
誰がみても面白い映画だと思います。僕自身も面白い映画だと思いました。
ただ、音楽の扱いや、監督自身の音楽への態度に、音楽への愛がないと思ったのです。
「スクール・オブ・ロック」や「スイングガールズ」にあって、この映画にないもの。それが「音楽の持つパワーへのリスペクト」である、と思いました。
さて、「セッション」よりも、音楽的に感じた映画は「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」でした。
この映画は完全に音楽のようでした。ライブ演奏みたいにスリルを感じる映画と感じました。
キャスト、ストーリー、演出、カメラワーク、すべてが良かった。
イニャリトゥ監督の父と娘の関係を描く絶妙な空気感も、とても丁寧に見事に描いていたと思います。
そして、可笑しくも寂しげな、愉快な、どうしようもない登場人物たちのエゴと人生と同じくらいの存在感があるのが、BGMであるアントニオ・サンチェスのドラム。
ほぼ全編、この映画のBGMは、このアントニオ・サンチェスのソロドラムだけで奏でられています。
この「ドラムだけのBGM」というめずらしい手法が、不安定な要素として画面を支配していながら、とはいえ、ドラムのプレイ自体は極上の表情の豊かさで、登場人物たちの演技が進行しているところにメロディやハーモニーが生まれているような、そんなふうに映画全体が極上のバンドサウンドとして展開されていたように思えました。
ラストも元気を与えてくれました。
笑顔になれるような、そんな映画でした。
そこで「セッション」と比較してしまいますが、ドラムの音の表現そのものだけみても「バードマン」のほうが全然丁寧なのです。
スネアの音ひとつとっても、「セッション」で奏でられるスネアの音は、まあ、一般的に教科書のようなジャズのスネアですよね、という音。
クライマックスのドラムソロのプレイについても、僕は途中で退屈してしまいました。
ところが、「バードマン」におけるアントニオ・サンチェスのドラムのスネアの音は多彩な音で、さまざまな場面をさまざまなジャブで彩っていきます。もう、そこにやられます。最初のタイトルからして、タイポグラフィックなシンクロがたまんないです。
また、シンバルやハイハットの音についても、「バードマン」のそれは一音一音がめくるめく演奏で、他の楽器が必要ないと思えるほどのムードがありました。
そういう意味でも、「バードマン」は、「セッション」における鬼教官JKシモンズの「音楽で奇跡を起こす」ということを、作品として成功させている、という皮肉なことになってしまっています。
ですから、おそらく、音楽をプレイする人、さらにドラマーであれば、「セッション」より「バードマン」に夢中になってしまうと思われます。
音楽に対する愛があるか、ないか、という点においてだけですけどね。
ですから、映画としては「セッション」のほうがストレートに楽しめるし、こういう題材で、こういうテーマでストーリーを進行させ、最後まで観客を夢中にさせる、というこの監督の手腕は見事!面白く、満足もできる作品だと思います。
しかし、音楽への愛は、「バードマン」の足元にも及びません。
それは、つまり、「セッション」の監督自身が、不幸にも音楽の純粋な楽しさを味わえる環境で音楽ができなかったこと、そして、ミュージシャンという夢に挫折したということが作品に色濃く反映されているのだと思います。だから、この映画は間違っていない、と思います。
ですから、最初の話に戻りますが、僕は町山さんの主張も、菊地さんの主張もどちらにも共感できます。
僕にとっては、おふたりとも、僕の心のお師匠さんですから。
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