ブランディングとは何か?
かつてのように、広告さえ打てばモノが売れる時代ではなくなった。
これは誰しもが感じていることでしょう。
モノはたくさんある。品質も大幅に向上しているし、ユーザーのために行き届いた機能もある。
でも、思ったように売れない。
では、どうするか。
インターネットか?通販か?いやいや、まてよ、ま、でもやっぱり広告か?
というふうにいろいろわからないもので、手を尽くします。
そこで、「いやいや、我が社にはブランディングが足りてないんだよ」というような意見を言い出すことで、その「ブランディング」というような言葉に魔法のような魅力を感じてしまうわけです。
さて、ということで、さまざまな企業が、ブランディングという言葉を使い始め、社内にも社長直属の専門部署が出来たり、そういう専門家やコンサルタントに相談したりといったようなことで、他社の成功事例というのをたくさん話をうかがうとなります。
そこで、他社の成功事例を参考にしながら、ウチにはどんなことが必要かと考える。
見た目から入るケースがあります。なぜならこれが一番わかりやすい変化だからです。
ロゴマークのリニューアル、パンフレットやカタログのデザインや、包装するパッケージのデザインやルール。そこで使われる書体の規定。そういった見た目の刷新は最もわかりやすい変化ですから、そういったことを「ブランディング」という活動として捉えるケースは一番多いんじゃないでしょうか。
たしかに、それも大切なことですし、一般のお客さんからどのように映るか、ということでは、その企業の印象やイメージが変わる大きなきっかけですし、また、そういうことにしっかりと取り組む姿勢があるよ、という企業姿勢を訴えることも効果があると思います。
つまり、見た目と姿勢については、十分に効果があるものです。
ただ、そのなかでいくつかの企業については、それが弊害になっているケースもあることでしょうか。
というのも、
「ブランディングの規定により、この表現はできません」
「ブランディングの規定により、ロゴで遊ばないでください」
「ブランディングの規定により、別の色を使わないでください」
「ブランディングの規定に合ってれば、問題ありません」
こういった判断によって、表現の幅が狭くなる。
という弊害が生まれているのではないかと心配しています。
もちろん、その「ブランディング」によって、統一感は表現できるでしょう。
表現におけるコントロールは徹底できます。
しかし、そこから失われるものもあるのではなかろうかと、心配しているのです。
その得られるものと失われるものを天秤にかけた場合、得られる効果も大きいが失われる損失もあるのではなかろうかと思っています。
おもに、失われるものというのは、
「ルールによって社員が思考停止状態になる」
という懸念です。
ルールや規定はとっても便利です。そのルールの範囲内をきっちりと守るというのはたぶん日本人にとってはとても得意な分野だと思われます。
ルールや規定があれば、
「なぜ、赤信号になったら止まらなくてはならないのだろうか。赤というのは止まる、という意味があるのだろうか。赤は情熱の色、そして、恋の色。ああ、なんという官能的な色なんだ。その官能を象徴する色が、なぜ止まれなのだろうか。」
なんてことを考える必要はありません。
ルールや規定があれば、表現方法において制限があるために、ある程度のところでの表現方法となる。幅が狭くなるわけです。
いくらデザインが悪くても、ルールや規定にあっていればオッケー。
こういった事も発生しかねない、と心配しております。
では、僕の考える「ブランディング」とは何か、についてお話したいと思います。
ブランディングとは規定ではなく、哲学だと考えています。
そして、哲学があって、その哲学から導きだされるデザイン、だと思っています。
また、統一ではなく、拡散、成長だと思っています。
より広く、より自由な解釈を行っても、ブレない本質を見つめる哲学。
これがブランディングだと思うのです。
そういう意味ですと、おそらく世の中の企業が取り組んでいるブランディングは当てはまらないことが多いのではなかろうかと思うのです。
たとえば、創業者がまだトップでいる大企業を想定してみましょう。
その創業者は、言葉にしないまでも、彼らの哲学によって経営しています。
彼らの考え方や取り組みそのものが哲学となっており、意識的にも無意識的にも、身体からそれが発せられるので、そこにいるだけで、企業の哲学が存在している、と思われます。
ですから、彼らは見た目のブランディングを推し進めても「強い」のだと思います。
ところが、創業者はすでに他界もしくは引退されている企業の場合はいかがでしょうか。
その哲学を言語化し、この企業における精神的支柱はこうだ!ということを明確に社員全員が理解して、仕事に励んでいる会社は強いと思います。
でも、そうでない会社は、いくら一流のアートディレクターにお願いしても、その部分が弱いので、あまり成功しないケースが多いのではないでしょうか。
ブランディングとは、社員全員が、ブランドについて24時間でも語れるようなもの
そう考えています。
そこで、自然と、それが社員だけでなく、一般のお客様にとっても、共感できるものとなったり、もしくは洗脳されていくようなものではなかろうかと思っているのです。
気がつくと、「なんだかわからないけど、このブランドが好き」というような交換不可能な欲求に取り憑かれていくような、そういう感覚。
製品開発から営業から接客に至るまで、そのブランドを愛し、誇りに思う哲学。
その哲学を再構築すること。
それこそが「ブランディング」ではないかと思います。
そう、これは宗教と似ています。
でも、ブランド力が強いブランドは、信者のようなお客様がたくさんいらっしゃいます。
だから、哲学こそが、人を魅了していくのです。
そこから、柔軟なクリエイティブや、時代にあったデザインが生まれ、それでもブランドは脈々と強くなる。
そういった哲学を持って、ブランドを育てていくこと。
意外と忘れているのかも知れません。
これは誰しもが感じていることでしょう。
モノはたくさんある。品質も大幅に向上しているし、ユーザーのために行き届いた機能もある。
でも、思ったように売れない。
では、どうするか。
インターネットか?通販か?いやいや、まてよ、ま、でもやっぱり広告か?
というふうにいろいろわからないもので、手を尽くします。
そこで、「いやいや、我が社にはブランディングが足りてないんだよ」というような意見を言い出すことで、その「ブランディング」というような言葉に魔法のような魅力を感じてしまうわけです。
さて、ということで、さまざまな企業が、ブランディングという言葉を使い始め、社内にも社長直属の専門部署が出来たり、そういう専門家やコンサルタントに相談したりといったようなことで、他社の成功事例というのをたくさん話をうかがうとなります。
そこで、他社の成功事例を参考にしながら、ウチにはどんなことが必要かと考える。
見た目から入るケースがあります。なぜならこれが一番わかりやすい変化だからです。
ロゴマークのリニューアル、パンフレットやカタログのデザインや、包装するパッケージのデザインやルール。そこで使われる書体の規定。そういった見た目の刷新は最もわかりやすい変化ですから、そういったことを「ブランディング」という活動として捉えるケースは一番多いんじゃないでしょうか。
たしかに、それも大切なことですし、一般のお客さんからどのように映るか、ということでは、その企業の印象やイメージが変わる大きなきっかけですし、また、そういうことにしっかりと取り組む姿勢があるよ、という企業姿勢を訴えることも効果があると思います。
つまり、見た目と姿勢については、十分に効果があるものです。
ただ、そのなかでいくつかの企業については、それが弊害になっているケースもあることでしょうか。
というのも、
「ブランディングの規定により、この表現はできません」
「ブランディングの規定により、ロゴで遊ばないでください」
「ブランディングの規定により、別の色を使わないでください」
「ブランディングの規定に合ってれば、問題ありません」
こういった判断によって、表現の幅が狭くなる。
という弊害が生まれているのではないかと心配しています。
もちろん、その「ブランディング」によって、統一感は表現できるでしょう。
表現におけるコントロールは徹底できます。
しかし、そこから失われるものもあるのではなかろうかと、心配しているのです。
その得られるものと失われるものを天秤にかけた場合、得られる効果も大きいが失われる損失もあるのではなかろうかと思っています。
おもに、失われるものというのは、
「ルールによって社員が思考停止状態になる」
という懸念です。
ルールや規定はとっても便利です。そのルールの範囲内をきっちりと守るというのはたぶん日本人にとってはとても得意な分野だと思われます。
ルールや規定があれば、
「なぜ、赤信号になったら止まらなくてはならないのだろうか。赤というのは止まる、という意味があるのだろうか。赤は情熱の色、そして、恋の色。ああ、なんという官能的な色なんだ。その官能を象徴する色が、なぜ止まれなのだろうか。」
なんてことを考える必要はありません。
ルールや規定があれば、表現方法において制限があるために、ある程度のところでの表現方法となる。幅が狭くなるわけです。
いくらデザインが悪くても、ルールや規定にあっていればオッケー。
こういった事も発生しかねない、と心配しております。
では、僕の考える「ブランディング」とは何か、についてお話したいと思います。
ブランディングとは規定ではなく、哲学だと考えています。
そして、哲学があって、その哲学から導きだされるデザイン、だと思っています。
また、統一ではなく、拡散、成長だと思っています。
より広く、より自由な解釈を行っても、ブレない本質を見つめる哲学。
これがブランディングだと思うのです。
そういう意味ですと、おそらく世の中の企業が取り組んでいるブランディングは当てはまらないことが多いのではなかろうかと思うのです。
たとえば、創業者がまだトップでいる大企業を想定してみましょう。
その創業者は、言葉にしないまでも、彼らの哲学によって経営しています。
彼らの考え方や取り組みそのものが哲学となっており、意識的にも無意識的にも、身体からそれが発せられるので、そこにいるだけで、企業の哲学が存在している、と思われます。
ですから、彼らは見た目のブランディングを推し進めても「強い」のだと思います。
ところが、創業者はすでに他界もしくは引退されている企業の場合はいかがでしょうか。
その哲学を言語化し、この企業における精神的支柱はこうだ!ということを明確に社員全員が理解して、仕事に励んでいる会社は強いと思います。
でも、そうでない会社は、いくら一流のアートディレクターにお願いしても、その部分が弱いので、あまり成功しないケースが多いのではないでしょうか。
ブランディングとは、社員全員が、ブランドについて24時間でも語れるようなもの
そう考えています。
そこで、自然と、それが社員だけでなく、一般のお客様にとっても、共感できるものとなったり、もしくは洗脳されていくようなものではなかろうかと思っているのです。
気がつくと、「なんだかわからないけど、このブランドが好き」というような交換不可能な欲求に取り憑かれていくような、そういう感覚。
製品開発から営業から接客に至るまで、そのブランドを愛し、誇りに思う哲学。
その哲学を再構築すること。
それこそが「ブランディング」ではないかと思います。
そう、これは宗教と似ています。
でも、ブランド力が強いブランドは、信者のようなお客様がたくさんいらっしゃいます。
だから、哲学こそが、人を魅了していくのです。
そこから、柔軟なクリエイティブや、時代にあったデザインが生まれ、それでもブランドは脈々と強くなる。
そういった哲学を持って、ブランドを育てていくこと。
意外と忘れているのかも知れません。
コメント
コメントを投稿