「自分らしさ」を探しているひとたちへ
もう「自分探し」なんて言葉は、わりとネガティブな言葉になりつつあると思うけれども、ただ、やはり、企業の広告のキャッチコピーなんかでも相変わらず「自分らしく」とか「自分の道は自分で切り開く」とか、そういった「自分」なんていう言葉が主体となった言葉で、僕らの前向きな気持ちを奮い立たせようとしているようです。
「君の思うようにやってみなよ」とか、「もともと特別なオンリーワン」とか、まわりを気にせず、自分の思い通りに、自分の好きなように、自分の心地よい状態で、君らしさを全面に出していいんだよ。というような微笑みをたたえたささやきを僕らに向けている。
学校教育でもそうです。
「個性を伸ばそう」とか、「ひとりひとりの個性を大切にしよう」とか、そういう個性主義が当然のことのように方針として掲げられているでしょう。
おそらく、社会全体が「他の人と違っていいんだから、そんなことより個性を大切にしようぜ」っていう空気に溢れている。
その成果もあってか、数十年前と比べて、個性的といわれるひとたちが生きやすくなってきたと感じられます。
ちょっと変わった服装をしていたり、髪型が奇抜だったり、年齢に比べて美しすぎたり、職業や役職に対して美しすぎたり、もちろん美しすぎたりするだけでなく、おもしろいひと、おかしなひとなどあらゆるひとに対して、眉をしかめることなく、まあ、こういうひともいるよね、と静観できるようになっていると思われます。
もちろん、そういうものを「けしからん」というひともいるだろうし、まあ、とはいえ、個性的なひとというのは、一般のひとたちの数から考えてみればかなり少数だと思うので、せいぜい、以前に比べて「ごく少数派の個性的なひとたちがやや生きやすくなった」という程度の変化だと思います。
では、それはなぜか。
人々が寛容になったのか?
いや、そうとも思えない。
社会がどんどん共有空間を失ったせいではないかと思うのです。
共有空間とは、個人の所有ではない空間。
家族や地域や行政や会社やそういった集団で共有する空間のことです。
家族でいえば、ひとりひとりの部屋があったり、その部屋でひとりで過ごす時間が増えることで、家族で共有する時間や空間が減る。
地域でいえば、縁側の消失や、留守の知人の家にあがりこんで「おかえり」というようなことや、井戸端会議、調味料の貸し借り、つまり、隣近所で時間と空間を共有することが減少しているということ。
また、テレビは国民の共有装置だった。
テレビで流れているものは、誰でも知っていたし、誰でもすぐに会話できる。
僕は力道山などの時代は知らないが、王貞治のホームラン世界記録については、ほとんどの国民がかたずを呑んで見守っていた空気を憶えている。
政治についても、今回のような憲法9条の無効化のような法案が昭和の時代に閣議決定されていたなら、国中がひっくり返るような大騒動だったに違いない。
もちろん、いろいろな原因があると思います。
しかし、こういう状況について、社会が共有空間を失って、個人の所有の空間が拡大した、という解釈も無視できないと思っています。
国が豊かになって、個人が所有できる空間や装置が増大するのは自然の摂理だと思います。
だから、他人とのコミュニケーションに費やす時間は縮小されます。
隣近所と挨拶を交わすことなく、快適に自由気ままに生きることができるようになりました。
(葬式も田植えも稲刈りも近所のお手伝いがなくても自力でできるようになりました。)
家族と会話せずとも、平気で生活することもできます。
(家の冷蔵庫を物色しなくてもコンビニでなんとかなります。)
上司への報告もメールで済むことがあります。
(しかも、そのメールを読んでいない上司を叱責する部下も増えているでしょう)
つまり、自分の生活において、自分ひとりでなんとかなるようになってしまったため、他人のやることがあまり気にならなくなった、いや、他人のやることの迷惑の度合いが減少した、という傾向にあるのかも知れません。
ですから、個性的な人は、周りからとやかく言われる必然性がなくなりました。
寛容になったのではなく、かかわりが少なくなったから、といえるでしょう。
では、個性的ではないほとんどの人たちはどうでしょうか。
そもそも個性とは、自分で決めるものではないと思っています。
個性、自分らしさ、というのは、誰かいわれてはじめて定義されるものだと思います。
そして、その結果「あの人はこういう人だから、そういう行動をとるのよね」
という認識がされ、個性として認知されるものだと思います。
決して「オレはこういう人間だから、こういうふうに理解してもらいたい」ものではなく、「オレはこういう人間だから、こういうふうに理解してもらいたい」と考えることは不幸の始まりだと思います。
「まわりのひとはオレのことを理解してくれない」というふうに孤独を感じることも多いでしょう。
それは当然です。
誰も理解してくれる人などおりません。
おそらく、その場合、「オレはこういう人間だ」という自己定義があるので、その定義に対して期待したリアクションが得られないから、孤独を感じるのです。
ではどうすればよいのでしょうか。
その答えは、上に書きました。
「オレはこういう人間だ」という定義を捨てることだと思います。
「自分らしく」とか「個性を伸ばそう」なんて考えることが不幸の始まり。
自分は自分で決めるのではなく、自分は他人によってつくられるものです。
他人が定義してくるものが自分ですから、
知り合いが100人いたら、100人の自分がいる。
100人の自分がいるのだから、自分の可能性は100通りもあるということです。
ですから、ひとつ失敗しても、他の99も選択肢がある。
過去に他人に期待して失敗した、という経験があったとしても、
それは選択肢のひとつが失敗しただけのことです。
他の選択肢では成功するかも知れない。
個性はわざわざ伸ばさなくても、存在感を示さなくても、また否定しても、まわりにあわせていても、個性は勝手に滲み出てくることでしょう。
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